みなさん、こんにちは。
今回はちょっと変わって、私が阪大大学院生時代の親友だった東大の永長直人君の退官記念、最終講義「物理工学・理論の45年」というものを偶然見つけたのでこれをメモしておこう。以下のものである。
まずはとにもかく、永長直人教授に退職記念おめでとう、そして、お疲れさまでしたといいたい。
さて、せっかくなので、ここで私と彼との出会いを一応メモしておこう。
私が永長君と初めて会ったのは、確か大学院生に成った1985年だったか、あるいはその翌年だったかの、各大学の院生主催で行われる「物性若手夏の学校」でたまたま同室になったときだったと思う。
およそ今から38年くらい前のことである。
その何日かの間に非常に気が合って、部屋で長く語り合い、将来我々は我が国の停滞した物理学分野に風穴を開けようと、一廉の物性理論物理学者になろうと、お互いに鼓舞しあったものだ。
特にどんな本を勉強しているとか、誰の論文を読んでいるとか、何を考えたかとか、物理の話ばかりだった。
当時彼は大学院の修士課程の時代にたしか東大物工の花村教授のところにいて、すでにいくつか論文を書いていた。
そんな進んだ極めて優秀な大学院生だった。
そして、博士課程を卒業する前にすでに東大物性研の豊澤豊先生だったか、あるいは、花村先生の助手に採用されたと思う。
どっちだったかは調べればわかるはずだが、あまり私の記憶はここについては定かでなくなった。
お互いの数年の大学院生時代の間、毎年夏に物性若手夏の学校に参加しては、そこでまた会って色々議論したり、励まし合ったりし、さらに物理学会で会ったときなども機会があれば彼と話し、いろいろ東大の先生たちの研究や人柄などを聞いたものだ。
そうこうする内に私は研究室の教授とは馬が合わずに結構険悪な関係になり、なかなか研究が進展する状況にはなくなっていた。
一応、2年で「金属中のプラズモン」の研究で修士号はいただくことはできたが、ほんの形だけのものに過ぎなかった。
彼の研究と比べて顕著なものではない。
そして、私は院生の単位取得やら期間は完了したが、博士論文を出せるほどの論文がまだなかったために、1ヶ月のオーバードクターを経験した後、中途採用の形で会社に就職した。
これは理論から実験へ転向するという約束の形で採用されていた。
それで、私はそこで入社以来3ヶ月後に筑波研究学園都市の当時の電子技術総合研究所(電総研)への国内留学という形で、つくば勤務になった。
ところが、つくばの電総研でのお勤めのさなかに、実験結果の解釈をめぐって、指導官の見解と相容れない結果となった。
しかもそんな矢先に、私が入所直後からそこの職員たちに対して、当時阪大時代から継続してきた「1次元準周期格子」の研究に基づいて、「この準周期構造を持つ超格子構造を電総研で作りましょう」と言って提案してきたのだったが、それと全く同じ素子を作ったものがアメリカから出てきてしまったのである。
しかもPRLに出た。
というわけで、私はあまりの残念なショックで、この日はとても仕事できる気力も失せて、今日は早退させてくださいと同僚に言って、家に帰って気分転換をしたのである。
どうやらこのことと見解の相違などいくつくかが絡み合って、その部門の指導官から、次に行ったときに「お前は帰れ」という死刑宣告をもらったのだった。
そんなこんなで、その後、会社から1ヶ月の進退伺いの猶予期間をいただき、その期間その後をどうするかをずっと模索することになった。
むろん、最初の1週間は布団の中でただ涙を流していただけだった。
しかし、さすがに1週間も泣き続けると涙も枯れてくる。
それで、腹も減ったし、何か食うかという感じで外に出て外食し、それからサッカーボールで近所の空き地でボールリフティングしたところ、どういうわけか、まあなんとかなるさという気がしてきたわけだ。
そして、国内がだめなら、国外、外国に挑戦するしかないという思いを強くすることになった。
それで、その後は電総研に行っては図書室で自分の研究分野の研究者の住所や所属を調べ周り、その都度、そこへ研究できるチャンスが有るか聞く手紙を書くということをする。
大半、博士号のない人間がアメリカの大学の研究者にはなれないから、大学院生に正式に応募しろというようなものだった。
すると、好意的な手紙が1通だけやってきた。
それが当時ユタ大学におられた甲元真人さんからのもので、今度東大の物性研に行くから、そこで会ってもいいよというものだった。
それで、なんとか大学院生にしてもらおうと、すぐに返事を書いて、東大物性研で会うことにした。
その後、私は会社を12月末で退職し、一旦は失業者になり、山梨へ帰省。
そこで、さらにいくつかアメリカの大学院へ募集要項を送ってもらう手紙を書いたりしていたわけだ。
そして、甲元先生が物性研に滞在中に私は山梨から電車で先生に会いに行った。
幸い、非常に好意的で、まあ、なんとか大学院生にはしてあげましょうということで、一応のアメリカ行きが決定したというわけである。
1986年のその夏は、衆参同時総選挙があり、私は中尾栄一選挙事務所で雑役夫として働くチャンスを得た。
少しでもアメリカ留学の費用を増やそうという目的のためであったが、日本社会というものをミクロに見直す良い機会にもなった。
また、この夏の間はほぼ毎日のように、市民プールに行って水泳をしてストレス発散をしていた。
そんなとき、もし甲元先生の理論を実験的に証明するとなれば、光学的な実験が一番簡単で有望かも知れないということがひらめき、もし向こうへ行ったら、それを最初に研究したいと考えて、留学後の隠し玉にすることを思いついたのだった。
こういういわゆる「苦労」の末に、私は最終的に留学が決まったのだが、アメリカ大使館に学生ビザ(F1ビザ)を貰いに行く必要があり、その時に彼の家に呼ばれることになった。
だから、私が留学するすぐ直前に永長君の麻布の両親の家に呼ばれて、そこで一泊した。
この晩も早朝近くまで2人でいろいろ将来について語り合ったものだ。
確か彼の下宿は物性研の比較的近所のアパートだったが、そこにも一度行ったことがあった。
ちなみに、東大物性研は、いまの六本木ヒルズあたりの場所にあった。
昔は、「恋はいつもアマンドピンク」という映画があったように、
六本木のアマンドという喫茶店があって、そこが恋人同士の有名な待合場所であった。
その近くの路地を入っていったようなところに東大物性研があった。
その後、私がユタ大学留学中に、物性研の移転の話が急速に出てきて、その後、千葉柏へ移転してしまったというわけである。
こうして、晴れて私がアメリカに留学したのは1986年9月13日だったと思う。
その年の11月のサンクスギビングの4日間、アメリカの大学はこの4日間は休日になる。
少し大学生活にも慣れてきたので、私はこの時を待って、例の夏に考えた1次元準周期系のフィボナッチ模型の光学モデルを計算することにした。
甲元、カダノフ、タンの理論というものがあって、それを光学的な多層膜に応用してみるのである。
これは予想通りうまく行った。
それで、休み明けの月曜日に甲元先生のところに会いに行った。
ところが、甲元先生はまだ出勤前で隣の部屋にビル・サザーランド教授がいた。
さらにその隣はYong-Shi Wu先生がいた。
そこで、サザーランド教授にとりあえずこの研究の結果を、当時まだろくに話も聞くこともままならなかった私のスーパーブロークンイングリッシュで話してみたわけだ。
彼はアメリカ人にしては特別に察しがいい人だったので、ろくな会話もできないが、とにかく計算を黒板に書けというので、式を書いてみせると、
これは面白い!
ということになり、すぐに「後でマヒートに話す」ということになった。
そして、翌日今度は甲元さんの部屋に行くと、これは面白いから自分で計算していいかというから、どうぞお願いしますとお願いしたのである。
というのも、その頃は授業3、4個取っていてとにかく宿題を仕上げるのに忙しく時間がなかった。
そして、甲元先生とサザーランド先生により、1週間ほどしてすぐにこの研究の論文の草稿が出来上がった。
たまたまその頃日本から交換留学生がいたのだが、その姉妹が遊びに来ていて、みんなでいっしょに写真を撮った。
そしてこの研究はめでたく私がアメリカに来て最初の論文になった。というより、私の名がつく人生最初の論文となった。
この怒涛の1986年が過ぎた。
ユタ大物理学部では木曜講演会というものがあり、毎週木曜日は全米から1人研究者を呼んでその物理講演を聞くという慣習があった。
これは大学院生にとっては単位1の授業の一環だった。だから、院生はみな参加する義務があった。
しばらくして、甲元先生の招きでMITからShapir教授という物性理論の研究者がやってきた。
当時、甲元先生の計らいで、たいてい甲元先生が誰かを招いたときは、夕食や喫茶に私も来るかと招いていただいた。
そして、Shapir教授のときは、市内にあるロースティングカンパニーという有名な喫茶店で3人で話しながらコーヒーを頂いた。
その会話の中で、突然、Shapir教授が「最近MITの物理に日本人が応募してきたんだが、Naoto Nagaosaっていう日本人を知っているか?」と甲元さんに聞いた。
すると、甲元先生は「知らないな」と返事したのだが、私は「ああ、永長君はMITに行きたいんだ」と直感したので、私は
「僕は知っています」
と甲元先生に言ったのである。
とにかく、彼は東大、いや日本の中でも同世代でもっとも優秀な若手理論物理学者だというような説明をしたのである。
それを甲元先生がShapir教授に通訳した。
そのMITの先生とはそこで別れて以来それっきりだったが、その後、永長くんがMITに留学したことは聞き知っていた。
まあ、私のこの時のアドバイスがどれほど効果あったか知らないが、その後の永長君は皆が知る偉大な理論物理学者への階段を悠々と登って行く最初のスタートを切ったというわけである。
その後、私は4年後にめでたくサザーランド先生の下でPh. D.になれたが、運悪くアメリカ国内でポスドクにありつけなかった。
ちなみに、甲元先生はその2年前に東大物性研に戻ってしまっていた。
それで、いまの奥さんといっしょに日本へ帰国、都内駒込にいた弟のアパートに転がり込んで、職探しを始めた。
その頃、帰国の挨拶にということで、東大工学部の物理の永長君のところに行くと、そこには彼がいて、久しぶりに元気な姿を見ることができた。
その後ついでに立ち寄った和達三樹先生のところで、そこの掲示板にたまたま貼られていた求人広告に東芝と富士通があり、その面接の手配をしていただき、運良く私は一旦は富士通に入ることが決まったのである。
そこで働いている間に、私は週一ペースで東大物性研の甲元研のセミナーに参加して勉強させてもらっていた。
だから、その間に、奨学奨励金を甲元研に出すことができた。
甲元研のメンバーとは非常に親しくなった。
助手の初貝さんや当時大学院生だった山中さんや押川さんなどと親しくなった。
そこには、学習院の田崎晴明さんも来ていた。
まあ、いまや彼らも日本の物理学会の代表的な研究者になっておられると思う。
思い出せば、この富士通時代に一度、まだ我が家に子供ができる前だったと思うが、永長君の家に招いてもらったことがあった。
残念ながら、私の富士通時代はたったの2年で幕を閉じ、理化学研究所の3年ポスドク(基礎科学特別研究員)へ移る。
そして1996年4月、私は無事任期満了とともにここ徳島阿南へ移住した。
それ以後、永長君とは無縁になってしまった。
だから、少なくとも27年間は疎遠になってしまった。
まだ私が日本物理学会員だった時期で学会に行っていた時期は、学会で彼に会えば話をしたことは会ったかも知れないが、あまりはっきりした記憶がない。
だから、この27年ほどは彼と会って話すということはなかった。
その間、彼はどんどん有名な研究を行い、世界的な日本を代表する物性理論物理学者へ育っていったというわけである。
そして、今年、ちょうど私があの1月28日の寒い日にここ阿南で講演会を開いたように、永長君もこの3月に退職記念の最終講義を行ったというわけである。
まあ、あの夏の学校でお互いに目標としたビジョンに対しては、彼の方がうまく実現したように思う。
それに反して、私の方は当時の予想通りには行かなかった。
しかしながら、私自身この置かれた場所でそれなりに努力し、少しでも彼のような大学のスーパースターになろう、近づこうと努力し続け、我々の若い約束に報いろうとしたのは事実である。
まあ、とにかく、彼が健康でいまも、これからもさらに良い研究を行い、いつの日か、彼がストックホルムへ行く日を夢見ている。
その時は、俺も連れて行ってくれ、永長君!
あの物性若手夏の学校で君と出会えて本当に良かった。
ありがとう!